「残業代ゼロ」法案=過労死法案の誤解を解く ダイヤモンド・オンライン 2月17日(火)8時0分配信

労働時間制改革問題は色々な立場からの主張が盛り込まれており、いつもながら、よくわからぬ性質になってきている。一応、理解できる点は次の二つ。
・請負の要素をもたせた労働者 → 使用者が管理できなくなっている(高度な職種、その職務を管理する能力や管理人員不足)。指揮命令権が不適切な状態。
・長労働時間の抑制 → 国際的に見て長く、また育児介護という国家的基盤の弱体化を危惧。無論、健康障害から来る労働力の損失につながる。

<国際的にみて長過ぎる日本の労働時間は、労働者の健康を損ね、時間当たり労働生産性の向上を阻害するとともに、仕事と家庭の両立を図る働き方への大きな障害となっている。>

・統計ではそんなところだが、やはり日本の職場は公私の区別は厳格ではない点が重要である。新卒で入り、出世していくという何十年もその会社で「世話になる」という発想が「社会人の基本」である。「会社は他人の物」という発想が強くならないと難しい。それは経営者においても同じである。経営者が「会社は他人の物」というといかにも有限責任をちらつかせているように感じてしまうのと同じで、労働者も公私の区別は困難である。平凡な見解だが、日本文化変革論の切り口がないと暗礁に乗り上げてしまうのは明確。だから難しい。

<● 長時間労働でダラダラ… そんな社員の報酬は抑制される
 もっとも、専門職の内でも、短時間で効率的に働く社員の報酬が増える半面、長時間労働で仕事の質の低さを補ってきた社員の報酬が抑制される可能性は否定できない。>

「ダラダラ」という表現は慣れ親しんでいるものだが、この認定は各事案ごとにまったく異なる。ある会社では「あの人はそれで許されている」という言われ方もされ、ある会社では「あの人は悪く評価される嫌がらせを受けている」という言われ方もされる。このように、個別労使間や集団間においては常に争いのタネが撒かれているのが通常であり、政策過程の単純化に伴うリスクはもう見えている。
また、「長時間労働で仕事の質の低さを補ってきた」というところも、それまで放置したものか、それとも人事評価制度が有効でなかったかで、まったく感じ方が異なるところである。文化論の流れで言えば、「人に仕事が就く」という日本の職場環境では、それが最も会社人間の会社での過ごし方としてちょうどいいものだったに過ぎまい。そもそも、「能力」というタームのまぶしさに足元が見えなくなっているのが日本の労働学界ではないかともいえる。会社が欲する「能力」とか「成果」をよく研究してみればよい。

<しかし、いくら労働基準監督署の機能を強化しても、法を守らない事業者はあとを絶たない。労働者を保護するための最善の手段は、労働者にとって「労働条件の悪い企業を辞める権利」を確保することである。日本では、「労働市場の流動化」という概念に対しては、「企業のクビ切りの自由度を高める」という否定的なイメージが強いが、それは労働者にとっても「労働条件の悪い企業からの脱出」を容易にすることでもある。すでに労働力人口が持続的に減少する時代に突入している現在、少しでも景気が良くなると、途端に低賃金の仕事には労働者が集まらず、事業所の閉鎖に追い込まれる状況となっている。>

日本社会では、いったん入社した以上簡単に辞めることはまず第一に教えていない。確かに、法律相談では退職する自由の説明はするけれども、それは法律の説明であり、「辞めたらいい」とは実際口にするのを憚られる。本人が言うのならよいが、他人が言うのは簡単ではない。それはなぜか。
・無責任とみてしまうこともあるか
・入社した経緯に不用意さ、注意力の欠如をみてしまうからか
・いくら条件が悪くとも失業による無収入を考えればマシと考えるからか
・リレキが汚れると転職のハードルが高くなるからか
上記以外にもそれなりの力が作用していると思われるが、入社時点でそもそも「能力」の観点が欠落しているのがわかる。
まぁそれと、まだまだ労務の対償として給料を支払う義務があるとする文化ではなく、「お金を遣っている」という使用者観が強い文化だということだ。したがって、感情的になると、給料を支払わないという報復手段を採る経営者が普通にいるということだ。