16年03月27日
懲戒処分の研究【古典編】
『8 証人』
《すべて良い法制のもとでは、承認に対する信ぴょう性の度合と、犯罪を認定するに必要な証拠の性質とを正確にきめておくことが重要なことになっている。》
《すべて正常な理性をもった人間、いいかえればそのもつ観念に統一があり、その感情が他の人々の感情とちがわない人間なら、証人となることができる。しかし証人に与えられる信ぴょう性は、彼が真実をいうことに利益をもつか、虚偽の申立をすることに利益をもつかによって測定されるべきものだ。》
《略、もしうそを言うことに利益をもたなければ、彼らがうそをいうはずはないではないか。》
ある発言を証拠として採用するかどうかの判断において、その発言者の意図を推し量る。そしてその発言が発言者にとって何ら利益をもたらさない場合、その証拠的価値は高いものとして判断しうる。
少し話は逸れるが、労働条件の不利益変更の場合などで、不利益を受ける労働者が自らそれを是認する書面が出される場合がある。この場合、基本認識としては当人の自由意思を抑圧する何かがあったという推定が働くが、それを立証しないとき、当人は公式の場においてあらためてそれを是認したときは、その基本認識をもつ必要がなくなる。
ベッカリーアは続いて刑の宣告を受けた犯罪人の証言について、「彼は市民権上死んだ。そして死者はなんの行為もすることができない。」とする法学者を批判している。「真実発見の利益のため」、「被告の不幸な境地をたすけるため」、「時事の性質を変えるかもしれない新しい証言によって他の犯人あるいは被告みずからの手であかしを立てる」ことに利益があり、第一「裁判の進行を妨げることはないはずだ」と述べている。
《略、証人の信ぴょう力は、彼が被告に対していだいている好悪の感情その他被告との間の利害関係の密接さに反比例する。》
《ただ一人の証言だけでは不十分である。証人が認めることを被告が否認したら、確実なものはなにもなくなってしまう。そして「各人はむじつであると信じられなければならない」という法だけがそこに妥当するのだ。》
「各人はむじつであると信じられなければならない」という法は、疑わしきは罰せず=被告人の利益に従う原則のことをいう。
《証人が特殊の社会の成員であり、その社会の慣習やおきてが一般に知られていないばあい、あるいは一般のそれとことなるばあいもまたその証人に対してはあまり信頼が置けない。なぜならその証人は彼じしんの固有の欲望や熱情のほかに、その属している社会の欲望や熱情をもっているからである。》
日本企業の労働者の、社内に関する発言は、まずもって証拠力がないものと考えられた。終身雇用制は単なる人事制度ではなく、所属する会社も普通名詞の「会社」ではなく、一生身を捧げる対象であり、そして社会は「会社社会」としてそれを常識として倫理化していたからである。それが中高年リストラにはじまり今日の非正規雇用が労働の半数を占めていった流れによって、日本企業の社内においても客観性、社会妥当性、合理性など倫理的に確立していく必要に駆られていっているのである。無論、積極的にというものではないが、それら以外に、律するものとして具体的なものは何もないのである。無論、日本の会社はそれぞれの特徴をもっており、今なお雇用保障ができている会社もなくはないにせよ、もはや「会社」だからある程度の迷惑は許されるという社会ではなくなった。国際力を高める産業だから国民は彼等のする大体のことを忍ぶという国家体制からもまた脱却してしまっている。昭和の世界が忘れ去られていっているので加筆しておく。
《さいごに、たんにある者の発言だけで犯罪が構成されるばあい(略)証人の証言はほとんど無価値である。なぜなら、ことばの調子、身ぶり、その他各人がそのことばに付与しているそれぞれことなった観念にまつわるいっさいのものが、同じ発言をすっかり変質させ、つくりかえてしまうから、一つの発言を正確に反復することはほとんど不可能だから。
ほんとうに犯罪を構成するような違法な行為ならば、かならず、その行為にともなう無数の情況や、その行為から生まれる結果の中にいちじるしい証跡をのこしているものである。だが発言はなにものこさない。ただ記憶の中に存在するだけだ。そしてこの記憶というものがまた、その発言を聞いた者にとってしばしば不忠実であり、そそられるままに変わりやすいものなのである。
(略)違法行為を立証するために引用される数多い事情は、そのまま被告の立場を弁護する役に立つものだが、発言が構成する犯罪では、被告が自己弁護する方法がまったくないのだから。》
労働問題は基本的に物証に乏しく状況証拠や証言となる。したがって、権利の濫用と認定されるリスクがかなり大きく、確実性を重視する限りその人事権を行使することはかなり少ない。その場合において、証言に対する「自己弁護」の機会とその内容についての誠実な審議は重要視される観点となる。
《すべて良い法制のもとでは、承認に対する信ぴょう性の度合と、犯罪を認定するに必要な証拠の性質とを正確にきめておくことが重要なことになっている。》
《すべて正常な理性をもった人間、いいかえればそのもつ観念に統一があり、その感情が他の人々の感情とちがわない人間なら、証人となることができる。しかし証人に与えられる信ぴょう性は、彼が真実をいうことに利益をもつか、虚偽の申立をすることに利益をもつかによって測定されるべきものだ。》
《略、もしうそを言うことに利益をもたなければ、彼らがうそをいうはずはないではないか。》
ある発言を証拠として採用するかどうかの判断において、その発言者の意図を推し量る。そしてその発言が発言者にとって何ら利益をもたらさない場合、その証拠的価値は高いものとして判断しうる。
少し話は逸れるが、労働条件の不利益変更の場合などで、不利益を受ける労働者が自らそれを是認する書面が出される場合がある。この場合、基本認識としては当人の自由意思を抑圧する何かがあったという推定が働くが、それを立証しないとき、当人は公式の場においてあらためてそれを是認したときは、その基本認識をもつ必要がなくなる。
ベッカリーアは続いて刑の宣告を受けた犯罪人の証言について、「彼は市民権上死んだ。そして死者はなんの行為もすることができない。」とする法学者を批判している。「真実発見の利益のため」、「被告の不幸な境地をたすけるため」、「時事の性質を変えるかもしれない新しい証言によって他の犯人あるいは被告みずからの手であかしを立てる」ことに利益があり、第一「裁判の進行を妨げることはないはずだ」と述べている。
《略、証人の信ぴょう力は、彼が被告に対していだいている好悪の感情その他被告との間の利害関係の密接さに反比例する。》
《ただ一人の証言だけでは不十分である。証人が認めることを被告が否認したら、確実なものはなにもなくなってしまう。そして「各人はむじつであると信じられなければならない」という法だけがそこに妥当するのだ。》
「各人はむじつであると信じられなければならない」という法は、疑わしきは罰せず=被告人の利益に従う原則のことをいう。
《証人が特殊の社会の成員であり、その社会の慣習やおきてが一般に知られていないばあい、あるいは一般のそれとことなるばあいもまたその証人に対してはあまり信頼が置けない。なぜならその証人は彼じしんの固有の欲望や熱情のほかに、その属している社会の欲望や熱情をもっているからである。》
日本企業の労働者の、社内に関する発言は、まずもって証拠力がないものと考えられた。終身雇用制は単なる人事制度ではなく、所属する会社も普通名詞の「会社」ではなく、一生身を捧げる対象であり、そして社会は「会社社会」としてそれを常識として倫理化していたからである。それが中高年リストラにはじまり今日の非正規雇用が労働の半数を占めていった流れによって、日本企業の社内においても客観性、社会妥当性、合理性など倫理的に確立していく必要に駆られていっているのである。無論、積極的にというものではないが、それら以外に、律するものとして具体的なものは何もないのである。無論、日本の会社はそれぞれの特徴をもっており、今なお雇用保障ができている会社もなくはないにせよ、もはや「会社」だからある程度の迷惑は許されるという社会ではなくなった。国際力を高める産業だから国民は彼等のする大体のことを忍ぶという国家体制からもまた脱却してしまっている。昭和の世界が忘れ去られていっているので加筆しておく。
《さいごに、たんにある者の発言だけで犯罪が構成されるばあい(略)証人の証言はほとんど無価値である。なぜなら、ことばの調子、身ぶり、その他各人がそのことばに付与しているそれぞれことなった観念にまつわるいっさいのものが、同じ発言をすっかり変質させ、つくりかえてしまうから、一つの発言を正確に反復することはほとんど不可能だから。
ほんとうに犯罪を構成するような違法な行為ならば、かならず、その行為にともなう無数の情況や、その行為から生まれる結果の中にいちじるしい証跡をのこしているものである。だが発言はなにものこさない。ただ記憶の中に存在するだけだ。そしてこの記憶というものがまた、その発言を聞いた者にとってしばしば不忠実であり、そそられるままに変わりやすいものなのである。
(略)違法行為を立証するために引用される数多い事情は、そのまま被告の立場を弁護する役に立つものだが、発言が構成する犯罪では、被告が自己弁護する方法がまったくないのだから。》
労働問題は基本的に物証に乏しく状況証拠や証言となる。したがって、権利の濫用と認定されるリスクがかなり大きく、確実性を重視する限りその人事権を行使することはかなり少ない。その場合において、証言に対する「自己弁護」の機会とその内容についての誠実な審議は重要視される観点となる。