16年12月25日
懲戒処分の研究【古典編】
『11 宣誓について』
《宣誓は、被告が事実をいつわることに最大の利益をもっているばあいでも、真実をいうと誓わせる。ーここにもまた、法律と自然の感情との間の矛盾がある。まるで、人間は「じぶんを破滅におとしいれます」とすすんで誓うことができるというように!たいがいの人の心の中で、宗教心は利害の声にさえぎられてしまわないとでもいうように!
あらゆる時代の歴史はわれわれに教えている。このとうとい天のたまものほど濫用されているものはないことを。そして、もつとも有益であると見られている人々さえも日々宣誓をおかしているのに、どうして悪党がこれを尊重するわけがあろう?」
「宣誓」ということに否定的とする。
《なぜ人間を、神をけがすか、じぶんを破滅にみちびくかのおそろしい二者択一になげこもうとするのか!被告にこのような宣誓を命ずる法律は、被告に悪いキリスト教徒になるか、でなければ宣誓のじゅん死者になれと要求するものだ。
このようにして宣誓は、たいがいの人間の心の中で、正直のたった一つの担保である宗教的感情のあらゆる力を破かいし、宣誓はしだいに一つのたんなる形式に堕してしまう。
経験は、宣誓がどれほど役に立たないものであるかを示している。宣誓が被告に真実を言わせると信じている裁判官は一人もいないのだから。
そして条理もまた、それを示している。すべて人間の自然な感情に反する法律は、無力であり有害なのだから。》
宗教的となると私にはよくわからないので、人道的観点から理解する。法律で「意思」というものの背景には、聖なるものという認識があり、したがってそれを汚すとか否定するということについてはペナルティがあると考えられる。
また、被告に自己の言葉について宣誓をさせる行為はナンセンスというもの。現代法ではは、被告にではなく、証人や鑑定人について行うものとしている。
なお、宣誓に次ぐものとして自白がある。これもまた現代法では制限されている。
懲戒処分において宣誓させることはないとしても、自白に似たことはさせていることが多い。よく言われるのは、精神の自由を損なう始末書を出させることはできないというものですが、会社で既に文面を用意したものにサインするようにという認識ではないでしょうか。宗教的観点ならずともこれはさすがに「意思」ではありません。
「意思」を軽んずる傾向の強い労使関係であり、また懲戒自体も軽んじていると、結局会社は正当な主張が何一つ通らず、また実際に損害の発生や組織秩序に不具合をきたすことになります。
従来は事業一家として、解雇はまずなく、懲戒もない。その代り、社員〈労働者というより適切な表現〉は労働法に関係なく会社人間として活動〈労働というより適切〉していました。労働時間不明、賃金は会社規程として信じて活動し、関心事はもっぱら人事でした。すなわち疑似家族集団だったわけですが、主として退職金原資の枯渇事態から「リストラ」という手法が導入されて以降は、使用者と労働者という労働法の世界に戻った?わけです。言い換えれば、労働法は社会的に建前から本音の位置に移行したのです。これに伴い、その法改正に実効性が求められてきました。例えば「努力規定」は何もしなくてよい非強制規定という言い方がありますが、努力したかどうかの証明いかんで判断が下されるケースも増えてくるんではないかと考えます。
《宣誓は、被告が事実をいつわることに最大の利益をもっているばあいでも、真実をいうと誓わせる。ーここにもまた、法律と自然の感情との間の矛盾がある。まるで、人間は「じぶんを破滅におとしいれます」とすすんで誓うことができるというように!たいがいの人の心の中で、宗教心は利害の声にさえぎられてしまわないとでもいうように!
あらゆる時代の歴史はわれわれに教えている。このとうとい天のたまものほど濫用されているものはないことを。そして、もつとも有益であると見られている人々さえも日々宣誓をおかしているのに、どうして悪党がこれを尊重するわけがあろう?」
「宣誓」ということに否定的とする。
《なぜ人間を、神をけがすか、じぶんを破滅にみちびくかのおそろしい二者択一になげこもうとするのか!被告にこのような宣誓を命ずる法律は、被告に悪いキリスト教徒になるか、でなければ宣誓のじゅん死者になれと要求するものだ。
このようにして宣誓は、たいがいの人間の心の中で、正直のたった一つの担保である宗教的感情のあらゆる力を破かいし、宣誓はしだいに一つのたんなる形式に堕してしまう。
経験は、宣誓がどれほど役に立たないものであるかを示している。宣誓が被告に真実を言わせると信じている裁判官は一人もいないのだから。
そして条理もまた、それを示している。すべて人間の自然な感情に反する法律は、無力であり有害なのだから。》
宗教的となると私にはよくわからないので、人道的観点から理解する。法律で「意思」というものの背景には、聖なるものという認識があり、したがってそれを汚すとか否定するということについてはペナルティがあると考えられる。
また、被告に自己の言葉について宣誓をさせる行為はナンセンスというもの。現代法ではは、被告にではなく、証人や鑑定人について行うものとしている。
なお、宣誓に次ぐものとして自白がある。これもまた現代法では制限されている。
懲戒処分において宣誓させることはないとしても、自白に似たことはさせていることが多い。よく言われるのは、精神の自由を損なう始末書を出させることはできないというものですが、会社で既に文面を用意したものにサインするようにという認識ではないでしょうか。宗教的観点ならずともこれはさすがに「意思」ではありません。
「意思」を軽んずる傾向の強い労使関係であり、また懲戒自体も軽んじていると、結局会社は正当な主張が何一つ通らず、また実際に損害の発生や組織秩序に不具合をきたすことになります。
従来は事業一家として、解雇はまずなく、懲戒もない。その代り、社員〈労働者というより適切な表現〉は労働法に関係なく会社人間として活動〈労働というより適切〉していました。労働時間不明、賃金は会社規程として信じて活動し、関心事はもっぱら人事でした。すなわち疑似家族集団だったわけですが、主として退職金原資の枯渇事態から「リストラ」という手法が導入されて以降は、使用者と労働者という労働法の世界に戻った?わけです。言い換えれば、労働法は社会的に建前から本音の位置に移行したのです。これに伴い、その法改正に実効性が求められてきました。例えば「努力規定」は何もしなくてよい非強制規定という言い方がありますが、努力したかどうかの証明いかんで判断が下されるケースも増えてくるんではないかと考えます。