18年07月01日
今月の物故者“浅野総一郎”とはどんな経営者だったか
●水商売でタネ銭づくり
浅野総一郎は、昭和5年に83歳で大往生を遂げている。
浅野は文字通り“徒手空拳”で大成功した人物である。まず最初はタネ銭づくりだ。
いま語るとウソという人もいるほどだ。それは現在の御茶ノ水の橋の上。盛夏の真っ昼間。「さあ、冷やっこい冷やっこい、甘くて冷たい水だよ・・」と大声を張り上げる男がいる。
よく聞くと一杯がただの一銭だ。だったら飲もうかと思う者もいる。こうやって、一人が飲めば二人が飲み、三人となり四人という具合に客がついた。日に4、50杯は売ったという。
当時は現地に高林寺という禅寺があり、きれいな清水が湧き出していた。時の将軍の徳川秀忠公に献上したら大喜びで、当時の江戸屏風絵にも“高林寺御茶ノ水”として残されている。
しかし仕入といえばタダ同然で、砂糖を加えただけ。これでしこたまタネ銭を稼いだ。
しかし盛夏が過ぎ秋の訪れとともに水は売れなくなる。そこで横浜の“小倉屋”という味噌醤油を商う店に就職。ここで一大発見をする。当時の味噌は竹皮に包んで売っていた。
一大発見とは竹皮だ。相場を調べるといい値段で売買されている。情報を掴み行動は早い。
早速千葉県の姉ヶ崎に飛び、竹皮を仕入れ味噌醤油の販売店に売り込んだ。よく売れた。
儲けは冷やっこい水の比ではない。こうやって大事業の元金を稼いだのである。
全身を情報アンテナにしての動きには磨きがかかる。そうした某日、横浜港でも一大発見。
当時の荷役はモッコ(持籠)で石炭を運んでいた。ところがポロポロと落としている。だれも拾わない。自分が拾ってみたがだれも文句は言わない。それ以来毎日拾うことにした。
塵も積もれば何とやら。やがて住吉町に店を出し、税関、裁判所、警察、病院など片っ端から売り込みをした。やがて官庁と取引きしているのが信用になると読んだ。
某日、「石炭が1,200トンある。買わないか」という話が持ち込まれた。
●情報管理も人脈づくりもスキがない
価格は交渉をしたものの4,000円だ。当時の銀座の土地が800坪は買えた金額だ。
売るのはタイミングだ。当時“敦賀丸”という船が横浜港に停泊していたが、石炭がないから動けない。「売ってくれ」という。ここが潮時と売った。生まれて初めて手にした大金だ。
こうやって、ある日総一郎は例により朝の銭湯に入った。すると赤猫の噂で持ちきりだ。
赤猫とは火災のこと。ゆうべも赤猫が出たという噂である。ここで総一郎は考えた。
「現代の日本の家屋は木造だ。コンクリートにすれば赤猫防止になる。よし次はセメントだ」
そこで石炭商売で出入りしていた会社にセメント工場があったのを思い出した。行ってみると蛻(もぬけ)の殻ではないか。国営だったが赤字で閉じていた。昔も今も国営は甘いのだ。
そこで以前に渋沢栄一が、「オモシロイ奴、ヒマな時に来るがいい」と言われていたのを思い出し、尋ねて国営のセメント工場の払い下げを頼み込んだ。
午後10時過ぎに尋ねると、こんな遅くには会えないと断られた。「ヒマな時に来いと言ったのはそっち。俺がヒマな時とは午後10時過ぎだ」と言い、とうとう根負けして会った。
こうやってついに、株式会社浅野セメントが誕生したのである。
とにかく総一郎は、「一日4時間以上寝るとバカになる」を口ぐせに生涯を終わっている。
関わった事業は、浅野セメント、東洋汽船、磐城炭鉱、浅野造船、関東水力、庄川水力、東京湾埋立、浅野物産、浅野小倉製鋼、京浜運河など。間接的に関わりのある企業としては、南部鉄道、五日市鉄道、青梅鉄道、朝鮮鉄山、富士製鋼、大島製鋼などがある。
いま浅野が残した教育遺産は、浅野学園という中学校と高等学校がある。そして、JR鶴見線には“浅野駅”がある。ネット地図を紐解くと“浅野駅”が息をしているのである。
浅野総一郎は、昭和5年に83歳で大往生を遂げている。
浅野は文字通り“徒手空拳”で大成功した人物である。まず最初はタネ銭づくりだ。
いま語るとウソという人もいるほどだ。それは現在の御茶ノ水の橋の上。盛夏の真っ昼間。「さあ、冷やっこい冷やっこい、甘くて冷たい水だよ・・」と大声を張り上げる男がいる。
よく聞くと一杯がただの一銭だ。だったら飲もうかと思う者もいる。こうやって、一人が飲めば二人が飲み、三人となり四人という具合に客がついた。日に4、50杯は売ったという。
当時は現地に高林寺という禅寺があり、きれいな清水が湧き出していた。時の将軍の徳川秀忠公に献上したら大喜びで、当時の江戸屏風絵にも“高林寺御茶ノ水”として残されている。
しかし仕入といえばタダ同然で、砂糖を加えただけ。これでしこたまタネ銭を稼いだ。
しかし盛夏が過ぎ秋の訪れとともに水は売れなくなる。そこで横浜の“小倉屋”という味噌醤油を商う店に就職。ここで一大発見をする。当時の味噌は竹皮に包んで売っていた。
一大発見とは竹皮だ。相場を調べるといい値段で売買されている。情報を掴み行動は早い。
早速千葉県の姉ヶ崎に飛び、竹皮を仕入れ味噌醤油の販売店に売り込んだ。よく売れた。
儲けは冷やっこい水の比ではない。こうやって大事業の元金を稼いだのである。
全身を情報アンテナにしての動きには磨きがかかる。そうした某日、横浜港でも一大発見。
当時の荷役はモッコ(持籠)で石炭を運んでいた。ところがポロポロと落としている。だれも拾わない。自分が拾ってみたがだれも文句は言わない。それ以来毎日拾うことにした。
塵も積もれば何とやら。やがて住吉町に店を出し、税関、裁判所、警察、病院など片っ端から売り込みをした。やがて官庁と取引きしているのが信用になると読んだ。
某日、「石炭が1,200トンある。買わないか」という話が持ち込まれた。
●情報管理も人脈づくりもスキがない
価格は交渉をしたものの4,000円だ。当時の銀座の土地が800坪は買えた金額だ。
売るのはタイミングだ。当時“敦賀丸”という船が横浜港に停泊していたが、石炭がないから動けない。「売ってくれ」という。ここが潮時と売った。生まれて初めて手にした大金だ。
こうやって、ある日総一郎は例により朝の銭湯に入った。すると赤猫の噂で持ちきりだ。
赤猫とは火災のこと。ゆうべも赤猫が出たという噂である。ここで総一郎は考えた。
「現代の日本の家屋は木造だ。コンクリートにすれば赤猫防止になる。よし次はセメントだ」
そこで石炭商売で出入りしていた会社にセメント工場があったのを思い出した。行ってみると蛻(もぬけ)の殻ではないか。国営だったが赤字で閉じていた。昔も今も国営は甘いのだ。
そこで以前に渋沢栄一が、「オモシロイ奴、ヒマな時に来るがいい」と言われていたのを思い出し、尋ねて国営のセメント工場の払い下げを頼み込んだ。
午後10時過ぎに尋ねると、こんな遅くには会えないと断られた。「ヒマな時に来いと言ったのはそっち。俺がヒマな時とは午後10時過ぎだ」と言い、とうとう根負けして会った。
こうやってついに、株式会社浅野セメントが誕生したのである。
とにかく総一郎は、「一日4時間以上寝るとバカになる」を口ぐせに生涯を終わっている。
関わった事業は、浅野セメント、東洋汽船、磐城炭鉱、浅野造船、関東水力、庄川水力、東京湾埋立、浅野物産、浅野小倉製鋼、京浜運河など。間接的に関わりのある企業としては、南部鉄道、五日市鉄道、青梅鉄道、朝鮮鉄山、富士製鋼、大島製鋼などがある。
いま浅野が残した教育遺産は、浅野学園という中学校と高等学校がある。そして、JR鶴見線には“浅野駅”がある。ネット地図を紐解くと“浅野駅”が息をしているのである。