10年06月30日
新年金制度の基本原則
新年金制度の基本原則
(1)年金一元化の原則(全国民が同じ一つの制度に加入)
(2)最低保障の原則(最低限の年金額の保障)
(3)負担と給付の明確化の原則(負担と給付の関係が明確な仕組み)
(4)持続可能の原則(将来にわたって誰もが負担でき、安定的財源を確保)
(5)「消えない年金」の原則(年金記録の確実な管理と加入者本人によるチェックができる体制)
(6)未納・未加入ゼロの原則(年金保険料の確実な徴収により無年金者をなくす)
(7)国民的議論の原則(国民的な議論の下に制度設計を行う)
1、年金一元化でない現在、他保険者についてはその制度を押さえるのも大変であるし、また手続き状況など見えない(なお、ねんきん機構内においてもそうだが)ため、国民にとって不便である。
2、現行憲法を根拠にするものである以上、現在無年金国民が生じていることは問題であり続けた。
3、社会保障である以上、税の投入がある限り、それほど明確にはならないが‥。最低保障の上乗せ部分についてなら理解できる。
4、これが一番難しい。諸問題の源泉のひとつである企業の事務と保険料との負担をどうするか。
5、定期的な確認手続きにより今後は大丈夫であろう。
6、このあたりになると、やや首を傾げてくる。新年金制度の基本原則といいながらも、実際には現行制度の状況をベースにしたものだとわかるため、反応しにくい。
7、これも実際には難しい。日本人は国民的議論には参加しない性質が強い。期待してもすかされる可能性が高い。だから、「ポーズ」がまかり通って、ここまで無関心のまま来てしまったのである。といって、ここまで関心が高まった今、従来の「ポーズ」によっては危険極まりない。ただ、まだ「国民的議論」が繰り広げられるにまで達しているとは言い難い。せいぜいテレビのコメント程度がいいところであろう。それほどには真剣さが足りないということだ。
........................................................................
日本では今働き盛りの人間が生活保護を受けているという状態である。生活保護者は色々な理由で身動きが取れない。確かに、過労死寸前の人やローン地獄の人や介護うつにかかっている人と比べると血色は良いが、先(自立)が見えない。年金など貰えるとは考えてこなかった世代が今、ようやくそこそこの年金を受給し始める。しかし、その働き盛りの人間には現行法で、65歳まで年金受給は普通に開始されず、しかもその額は生活するだけのものにはならない(さらに65歳よりも後の67歳などからといった改正もありうる。)。日本はもう下がっていくだけなのか、であればいずれ中国から経済シフトするであろうベトナムなどに行けば、日本より楽に生きていけるかも知れない。
そこまで考えが進むほど、日本には潜在的可能性が枯渇してきているようにみえる。
(1)年金一元化の原則(全国民が同じ一つの制度に加入)
(2)最低保障の原則(最低限の年金額の保障)
(3)負担と給付の明確化の原則(負担と給付の関係が明確な仕組み)
(4)持続可能の原則(将来にわたって誰もが負担でき、安定的財源を確保)
(5)「消えない年金」の原則(年金記録の確実な管理と加入者本人によるチェックができる体制)
(6)未納・未加入ゼロの原則(年金保険料の確実な徴収により無年金者をなくす)
(7)国民的議論の原則(国民的な議論の下に制度設計を行う)
1、年金一元化でない現在、他保険者についてはその制度を押さえるのも大変であるし、また手続き状況など見えない(なお、ねんきん機構内においてもそうだが)ため、国民にとって不便である。
2、現行憲法を根拠にするものである以上、現在無年金国民が生じていることは問題であり続けた。
3、社会保障である以上、税の投入がある限り、それほど明確にはならないが‥。最低保障の上乗せ部分についてなら理解できる。
4、これが一番難しい。諸問題の源泉のひとつである企業の事務と保険料との負担をどうするか。
5、定期的な確認手続きにより今後は大丈夫であろう。
6、このあたりになると、やや首を傾げてくる。新年金制度の基本原則といいながらも、実際には現行制度の状況をベースにしたものだとわかるため、反応しにくい。
7、これも実際には難しい。日本人は国民的議論には参加しない性質が強い。期待してもすかされる可能性が高い。だから、「ポーズ」がまかり通って、ここまで無関心のまま来てしまったのである。といって、ここまで関心が高まった今、従来の「ポーズ」によっては危険極まりない。ただ、まだ「国民的議論」が繰り広げられるにまで達しているとは言い難い。せいぜいテレビのコメント程度がいいところであろう。それほどには真剣さが足りないということだ。
........................................................................
日本では今働き盛りの人間が生活保護を受けているという状態である。生活保護者は色々な理由で身動きが取れない。確かに、過労死寸前の人やローン地獄の人や介護うつにかかっている人と比べると血色は良いが、先(自立)が見えない。年金など貰えるとは考えてこなかった世代が今、ようやくそこそこの年金を受給し始める。しかし、その働き盛りの人間には現行法で、65歳まで年金受給は普通に開始されず、しかもその額は生活するだけのものにはならない(さらに65歳よりも後の67歳などからといった改正もありうる。)。日本はもう下がっていくだけなのか、であればいずれ中国から経済シフトするであろうベトナムなどに行けば、日本より楽に生きていけるかも知れない。
そこまで考えが進むほど、日本には潜在的可能性が枯渇してきているようにみえる。
10年06月25日
暴走行きずり事件
「マツダ勤務時に物を盗まれた」盗聴器相談も 工場12人殺傷
不特定の多数あるいは「大衆」に向けられた憎しみが発展した事件が、近年増加している。これがプロ化したのが即ち「テロ」であることから、とうとうもやもやした世相になった。
刑法の扱いも古い。殺意があったかどうか、動機は何かとの特定作業に難航する。昔の=ある一時期のドイツ刑法学に準じているため、近年の及び日本的な事件にあてはめるのはどうなのか。悟りきった人ならば、法は究極の方便であると言い切るだろう。そして、文化解釈学に戻る。しかし、どうなんだろうか。日本ではこの文化解釈学が異様に伸びきってはいやしまいか。やはり、それにはそれなりの権威というべきものが要るのではあるまいか。
ところで、今回の事件は工場敷地内で起きたことから、大衆問題ではない。したがって、問題の核心はその雇用環境にあるといえる。無論、現在雇用環境といえば、社会問題化しているものであるゆえ、大衆問題さらに国家問題ということもできるが、事件性の面から特定の現場と因果関係があるものとすべきであろう。
中小企業において経営者が直接殺傷されるなどの事件を考えれば、それは直接経営者が因果関係者にあたるということであるが、今回はそうではない。ということは、多くの因果関係者が存在するということである。これまでの記事では「自己破産」などしか載せられていなかったが、ここでようやく、多くの因果関係者を浮きぼらせる記事が載せられている。
《「マツダで働いているときに物を盗まれた」》
《「誰かが自宅に侵入している。盗聴器を仕掛けられた」》
当然、現場にいないとわからないが、これを信ずれば、辻褄は合う。過激な行動に出たという理由はもう少し何かを足さなくてはならないが、「誰かが」自分を追い込んでいるという認識にあったことはまちがいないだろう。問題はこの「誰か」なのである。
仮に労働法であればその責任主体は、実行者(部課長など権限者)と代表者そして法人という設定である。よく言われるように、この者たちは「責任をとるための存在」である。そして、その手腕等によって、人や取引き先は「信用できるとか信用できない」と判断する。それはそうとして、労働事件における民事的要素=ここでは不法行為、の強い事件においては、実質的にも形式的にも、その時期、その雇用環境を構成していた総員が因果関係者となりうる。「誰かが」判然としないかたちで形成された環境であれば、矛先は「総員」ということになる。相当荒削りの論理ということになるが、したがって相手にせず、そのままで放置しているのが日本社会の現状であるように見受けられる。もしくは、見当違いなど。
不特定の多数あるいは「大衆」に向けられた憎しみが発展した事件が、近年増加している。これがプロ化したのが即ち「テロ」であることから、とうとうもやもやした世相になった。
刑法の扱いも古い。殺意があったかどうか、動機は何かとの特定作業に難航する。昔の=ある一時期のドイツ刑法学に準じているため、近年の及び日本的な事件にあてはめるのはどうなのか。悟りきった人ならば、法は究極の方便であると言い切るだろう。そして、文化解釈学に戻る。しかし、どうなんだろうか。日本ではこの文化解釈学が異様に伸びきってはいやしまいか。やはり、それにはそれなりの権威というべきものが要るのではあるまいか。
ところで、今回の事件は工場敷地内で起きたことから、大衆問題ではない。したがって、問題の核心はその雇用環境にあるといえる。無論、現在雇用環境といえば、社会問題化しているものであるゆえ、大衆問題さらに国家問題ということもできるが、事件性の面から特定の現場と因果関係があるものとすべきであろう。
中小企業において経営者が直接殺傷されるなどの事件を考えれば、それは直接経営者が因果関係者にあたるということであるが、今回はそうではない。ということは、多くの因果関係者が存在するということである。これまでの記事では「自己破産」などしか載せられていなかったが、ここでようやく、多くの因果関係者を浮きぼらせる記事が載せられている。
《「マツダで働いているときに物を盗まれた」》
《「誰かが自宅に侵入している。盗聴器を仕掛けられた」》
当然、現場にいないとわからないが、これを信ずれば、辻褄は合う。過激な行動に出たという理由はもう少し何かを足さなくてはならないが、「誰かが」自分を追い込んでいるという認識にあったことはまちがいないだろう。問題はこの「誰か」なのである。
仮に労働法であればその責任主体は、実行者(部課長など権限者)と代表者そして法人という設定である。よく言われるように、この者たちは「責任をとるための存在」である。そして、その手腕等によって、人や取引き先は「信用できるとか信用できない」と判断する。それはそうとして、労働事件における民事的要素=ここでは不法行為、の強い事件においては、実質的にも形式的にも、その時期、その雇用環境を構成していた総員が因果関係者となりうる。「誰かが」判然としないかたちで形成された環境であれば、矛先は「総員」ということになる。相当荒削りの論理ということになるが、したがって相手にせず、そのままで放置しているのが日本社会の現状であるように見受けられる。もしくは、見当違いなど。