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《公認会計士の「卵」が就職難に直面している。公認会計士試験を所管する金融庁は、一般企業への就職増を見込んで4年前に受験者の門戸を広げ、合格者が急増したが、需給のミスマッチと不況のダブルパンチでもくろみは外れ、“会計士浪人”が増えている。新司法試験に合格したのに就職先がない弁護士希望者が増えたのと似た構図で、日本公認会計士協会は企業に採用のメリットをアピールするなど、雇用拡大に躍起になっている。》

日本の士業再編成問題は完結をまだ見ていないが、国家資格についてはこれを機にまた根本のところで熟考の余地が大きいと見直さねばなるまい。というのは、従来国家資格のその法改正によりそれぞれ歩んできたわけであるが、最後に残る課題は国家社会にどのように絡むかという当然のところに落ち着く。
今の日本はどのような社会を形成しているのかという明瞭な認識が欠けている(或は声を発せない)のは、閉じこもり社会なので仕方がないとはいえ、そのツケが既に廻ってきてしまっている。

日本公認会計士は上場の際のハンコがどうしても必要、負債が多い企業については法定で監査法人を義務づけられている、など、ハズレのない資格のはずなのではあるが、中身は年々素人ぽくなっていった。もともと企業からの需要動機が弱いため、したがって法定義務としているが、しかしながら不祥事を止めることができない。これも国家が需要を義務づけたに止まり、その先は民事的な力関係という日本社会がそこに反映される。ゆえに、国家資格は、基金なりを企業等から出させて、国から報酬を受けるようにしなければならない、決して直接報酬を受取ってはならないという仕組みがなければ、形骸化の途を辿るしかない。無論、各団体はそこまでではないが、それぞれ可能な範囲で努力中ではある。

やはりバブル社会を経験したことが大きな岐路とも思えてくる。それまでは銀行に就職するのは一流大学の優秀な学生と相場が決まっていたが、バブル以後銀行もまたやや国家色のある一企業ということになった。特に、コスト削減策としていち早く窓口業務にパートを雇ったところから、国民は銀行に対する視点を下げていった。無論大きな経済転機の時期であったことはまちがいないが。こうしたことも丹念に踏まえて拾い集め、戦後史を書かなければならないが、どうも唯物史観が抜けたら歴史観そっくりなくなってしまったような国になってしまった。
10年12月19日 | Category: General
Posted by: roumushi
10年12月08日

国民の迷走の原因

『韓国の悲劇』(小室直樹・光文社カッパビジネス)に触発される文章があった。

《戦前の日本では村落共同体があったゆえに、会社は共同体になることはなく、単なる機能集団たるにとどまった。このことは戦前日本では、企業間移動が容易であったことによっても容易に理解されよう。
また戦前においては、同一年度入社同一給料という平等性がなく、職務と功績によって大きな給料差があったことだけをみても、理解されよう。
戦後の「日本式経営」を特徴づける年功序列、給与の平等性、終身雇用、これみな共同体の特徴である。戦後日本の機能集団たる官公庁、公社現業、大企業、主だった中小企業などは、急速に共同体に収束していった。その理由は機能集団たる村落共同体が崩壊していったからである。》

※ これには戦中の情報がなく、不自然である。戦後の村落共同体の崩壊は正しいが、単に上記の組織等がそのようになったのではなく、戦中の総動員体制の一環で作られた体制である。国家による産業体制確立のための体制なのであり、したがって、高度成長期後産業から国の影響が薄れていったとき、今度は事業一家体制もまた崩れていったのである。コスト負担が一組織では抱えきれないことがわかったからである。

《韓国ではこういうことは起こらなかった。解放前の朝鮮には、日本の村落にあたる協働共同体はなかった。韓国における共同体は協働共同体ではなく、本貫という血縁共同体である。ゆえに会社などの機能集団が、共同体となることはなかったのである。
このことによって次のごとき社会的、経営的、経済的に重大な結果が生じた。》

一つめとして、平等化が行われることがなかったということで、小室氏は賃金格差、学歴による所得格差、を挙げている。
二つめとして、企業間の移動が自由だということを挙げている。

《共同体がもつ決定的特徴は、内外の人間を峻別することにある。
日本では企業が共同体であるから、企業外の人間を、個人的にいかに親しいとしても、重大なところにおいては残酷なまでに差別する。
韓国の場合には経営者たちの同族は、同一本貫という共同体に属する。しかも企業は、共同体ではない。ゆえにこの企業の(他の本貫に属する)社員は、いかなる方法をもってしても、(社長のひとり娘と結婚してさえも)経営者と同一共同体に加入することは許されない。》
《この違いは大きい。共同体の特徴は、そこに「生まれる」ことはできても「移動してくる」ことが許されないことである。
日本の企業で、学校を卒業したての新入社員が「下から」入ることは正常でも、甲羅も固くなった他者の社員が、「ヨコから」転社することが著しく困難であることは、この理由による。
また、無理を覚悟で決然として転社しても、なかなかうまくゆかないというのも、この理由による。この意味で日本企業は、企業(全体)に関しては閉じられている。》
《日本においては、経営者も一般社員も企業に「骨を埋める」つもりである。これに対し韓国では、経営者同族はそのつもりでも、一般社員はそうではない。
ここに、経営者と一般社員とのあいだの連帯意識は生じ難く、むしろ大きな意識上のギャップが生ずる。(略)
さて、この意識上のギャップが富分配の不平等とあいまって、韓国社会に階級とそれに見合う階級意識を生むことになった。》


昭和60年の本なので、日本はここから千鳥足になるところだが、韓国もまた異なる意識が現れているように見受けられる。ま、しかし、大体は正確になぞらえているものと考える。これは『韓国の悲劇』というタイトルだが、今なら村落共同体を失い、そして産業共同体をも失われつつある迷子然たる「日本の悲劇」として書くこともできたものである。
10年12月08日 | Category: General
Posted by: roumushi