『韓国の悲劇』(小室直樹・光文社カッパビジネス)に触発される文章があった。

《戦前の日本では村落共同体があったゆえに、会社は共同体になることはなく、単なる機能集団たるにとどまった。このことは戦前日本では、企業間移動が容易であったことによっても容易に理解されよう。
また戦前においては、同一年度入社同一給料という平等性がなく、職務と功績によって大きな給料差があったことだけをみても、理解されよう。
戦後の「日本式経営」を特徴づける年功序列、給与の平等性、終身雇用、これみな共同体の特徴である。戦後日本の機能集団たる官公庁、公社現業、大企業、主だった中小企業などは、急速に共同体に収束していった。その理由は機能集団たる村落共同体が崩壊していったからである。》

※ これには戦中の情報がなく、不自然である。戦後の村落共同体の崩壊は正しいが、単に上記の組織等がそのようになったのではなく、戦中の総動員体制の一環で作られた体制である。国家による産業体制確立のための体制なのであり、したがって、高度成長期後産業から国の影響が薄れていったとき、今度は事業一家体制もまた崩れていったのである。コスト負担が一組織では抱えきれないことがわかったからである。

《韓国ではこういうことは起こらなかった。解放前の朝鮮には、日本の村落にあたる協働共同体はなかった。韓国における共同体は協働共同体ではなく、本貫という血縁共同体である。ゆえに会社などの機能集団が、共同体となることはなかったのである。
このことによって次のごとき社会的、経営的、経済的に重大な結果が生じた。》

一つめとして、平等化が行われることがなかったということで、小室氏は賃金格差、学歴による所得格差、を挙げている。
二つめとして、企業間の移動が自由だということを挙げている。

《共同体がもつ決定的特徴は、内外の人間を峻別することにある。
日本では企業が共同体であるから、企業外の人間を、個人的にいかに親しいとしても、重大なところにおいては残酷なまでに差別する。
韓国の場合には経営者たちの同族は、同一本貫という共同体に属する。しかも企業は、共同体ではない。ゆえにこの企業の(他の本貫に属する)社員は、いかなる方法をもってしても、(社長のひとり娘と結婚してさえも)経営者と同一共同体に加入することは許されない。》
《この違いは大きい。共同体の特徴は、そこに「生まれる」ことはできても「移動してくる」ことが許されないことである。
日本の企業で、学校を卒業したての新入社員が「下から」入ることは正常でも、甲羅も固くなった他者の社員が、「ヨコから」転社することが著しく困難であることは、この理由による。
また、無理を覚悟で決然として転社しても、なかなかうまくゆかないというのも、この理由による。この意味で日本企業は、企業(全体)に関しては閉じられている。》
《日本においては、経営者も一般社員も企業に「骨を埋める」つもりである。これに対し韓国では、経営者同族はそのつもりでも、一般社員はそうではない。
ここに、経営者と一般社員とのあいだの連帯意識は生じ難く、むしろ大きな意識上のギャップが生ずる。(略)
さて、この意識上のギャップが富分配の不平等とあいまって、韓国社会に階級とそれに見合う階級意識を生むことになった。》


昭和60年の本なので、日本はここから千鳥足になるところだが、韓国もまた異なる意識が現れているように見受けられる。ま、しかし、大体は正確になぞらえているものと考える。これは『韓国の悲劇』というタイトルだが、今なら村落共同体を失い、そして産業共同体をも失われつつある迷子然たる「日本の悲劇」として書くこともできたものである。