08年10月01日
■もはや「自己啓発」は死後なのか?
当時、京都の清水寺の貫主(かんしゅ)は、大西良慶さんだった。
当時とは、良慶さんが100歳の頃のことだ。
その日良慶さんは、アメリカの偉大な作家、パールバック女史の来訪を受けた。「大地」の著者だ。
そこで女史は、良慶さんに尋ねた。
「今までで、いちばん愉快だったのは、何歳の頃でしたか?」
すかさず良慶さんは、答えたという。
「そりゃ何といいましても、60−70代が、いちばん人生の華でしたよ・・」
ちょうど自分がその歳にあたる女史は、終日ご機嫌だったそうだ。
しかしじつは良慶さんは、女史の来訪を受ける前に、女史の年齢を確認していたという。
会話の内容ひとつをとっても、相手の気をそらさない、会話と接遇の達人ではないか。いや、人生の達人というべきか。
ひるがえって現代の大学生。
お茶の水女子大学で、藤原正彦教授のゼミ学生でありながら、多くの学生が、「新田次郎」も「藤原てい」も知らないそうだ。
前者は、「八甲田山死の彷徨」や「孤高の人」の著者であり、後者は、「流れる星は生きている」の著者である。しかも、藤原教授のご両親でもあるのだ。
勉強といえば、“自己啓発”という論語の一説がある。その真意はこうである。
「じっとしてわしの話を聞くだけで、みずから進んで、師の教えを盗みとるほどの熱意のない人間に、わたしは教える気力はないワ」
こういって孔子が、弟子を諭した言葉が、自己啓発なのだ。
昔、予習と復習は、自己啓発の第一歩だった。いまはもう死語なのか。(藤原正彦・「国家の品格」の著者)
※大西良慶・1983年3月死去、107歳
当時とは、良慶さんが100歳の頃のことだ。
その日良慶さんは、アメリカの偉大な作家、パールバック女史の来訪を受けた。「大地」の著者だ。
そこで女史は、良慶さんに尋ねた。
「今までで、いちばん愉快だったのは、何歳の頃でしたか?」
すかさず良慶さんは、答えたという。
「そりゃ何といいましても、60−70代が、いちばん人生の華でしたよ・・」
ちょうど自分がその歳にあたる女史は、終日ご機嫌だったそうだ。
しかしじつは良慶さんは、女史の来訪を受ける前に、女史の年齢を確認していたという。
会話の内容ひとつをとっても、相手の気をそらさない、会話と接遇の達人ではないか。いや、人生の達人というべきか。
ひるがえって現代の大学生。
お茶の水女子大学で、藤原正彦教授のゼミ学生でありながら、多くの学生が、「新田次郎」も「藤原てい」も知らないそうだ。
前者は、「八甲田山死の彷徨」や「孤高の人」の著者であり、後者は、「流れる星は生きている」の著者である。しかも、藤原教授のご両親でもあるのだ。
勉強といえば、“自己啓発”という論語の一説がある。その真意はこうである。
「じっとしてわしの話を聞くだけで、みずから進んで、師の教えを盗みとるほどの熱意のない人間に、わたしは教える気力はないワ」
こういって孔子が、弟子を諭した言葉が、自己啓発なのだ。
昔、予習と復習は、自己啓発の第一歩だった。いまはもう死語なのか。(藤原正彦・「国家の品格」の著者)
※大西良慶・1983年3月死去、107歳