14年06月01日
“らつ腕経営者”には遊識人間が多い
●らつ腕経営者とはどんな人物?
らつ腕経営者とは的確な経営アクションを、タイムリーに行動を起こすことができる人のことである。つまり思考熟慮に時間をかけることもあれば、電光石火のごとく行動することもある。
小林一三といえば関西商業界では、阪急グループや宝塚歌劇団の創設という活躍をはじめ、広く〈商業の神様〉として通る人だった。
ある日、阪急電車の増収策として、幹部が社長(小林)に新しい企画を持ち込んだ。
「当社の阪急箕面線の沿線グラウンドを利用して、ひとつ全国中学校対抗の野球大会をやりませんか。乗客は増えるし、その経済効果はこれこれで・・」(当時の中学校=現在の高校)
すると小林は、「それはええアイデアだなあ!」とは言うが、最終決裁はおろさない。
何日がすると小林は、提案した幹部を呼び、こんな私案を加えた。
「あの企画はええなあ。しかし全国の中学校への広報活動のことなど考えると、新聞社の主催にした方が、いろいろと都合がええんと違うか・・」
この提案が実り朝日新聞が喜んで引き受け、現在の“夏の選抜高校野球大会”へと発展してきている。現在、全国の高校学徒を沸かす夏の風物詩ともなった。“夏の選抜高校野球大会”の生みの親は、じつは小林一三だったのである。
考え方の柔軟さ、発想の新鮮さ、将来への見通しの確かさ。驚くばかりである。
●知識のある馬鹿になるな
小林一三(昭和32年歿)という人は、経営戦略でもマネジメントでも前例を踏襲することは皆無に近く、みずから前例を創り出したところに、非凡な才覚を感じさせる人だったらしい。
たとえば前述のように昭和32年に亡くなる直前に、ある人が千葉県の船橋に、現在の健康ランドのような総合リクリエーション施設を計画した。A土地興行という会社だった。
この会社の経営者が、所有地に温泉が出たものだから、「よし、船橋ヘルスセンターを作ろう」と思い立ち、経営の神様・小林一三に、「ぜひ一度、現地を見ていただきたご高見を伺いたい」というお願いをした。そして小林による現地視察の日は訪れた。
ところが約束の時間になっても、小林の車は一向にやって来ない。関係者全員でヤキモキして待っていると、なんと小林はテクテク歩いてやって来るや、「もう現地は見てきた・・」といってヘルスセンター起業への賛意を表した、というのである。
なんと小林は一般の交通機関に乗り、事前に入手していた計画地まで足を運び、東京からの客のアクセス時間や経路まで調べ、いわゆる踏査までして、検討していたというのだ。
もともと小林は、事業家になる意思は毛頭なかった。希望の本命は作家だった。
だから生活のため三井銀行に入ったが、勤めの傍ら執筆に努めるが、日が暮れると夜の紳士に早変わり。酒と女でよく遊んだ。
小林の創造企画エネルギーの根源は、どうやら〈有識人間〉というより、〈遊識人間〉としての経験が、発想の土台を支えていたようだ。
有識人間は確かに知識はある。しかしこのタイプは、こんな意見にも耳を傾けて欲しい。
「いろんな本を読み、名門の学校にも通い、いろんなことをよく憶えている人がいる。しかしただそれだけで終わる人物は、知識のある馬鹿に等しい」(フリデリック・ビンリングス)
“らつ腕経営者”になる条件の一つは、どうやら“遊び”も入るようだ。問題は、どんな遊びが必要かだ。遊びとはいえ、“遊学”もある。ここが思案のしどころだ。
らつ腕経営者とは的確な経営アクションを、タイムリーに行動を起こすことができる人のことである。つまり思考熟慮に時間をかけることもあれば、電光石火のごとく行動することもある。
小林一三といえば関西商業界では、阪急グループや宝塚歌劇団の創設という活躍をはじめ、広く〈商業の神様〉として通る人だった。
ある日、阪急電車の増収策として、幹部が社長(小林)に新しい企画を持ち込んだ。
「当社の阪急箕面線の沿線グラウンドを利用して、ひとつ全国中学校対抗の野球大会をやりませんか。乗客は増えるし、その経済効果はこれこれで・・」(当時の中学校=現在の高校)
すると小林は、「それはええアイデアだなあ!」とは言うが、最終決裁はおろさない。
何日がすると小林は、提案した幹部を呼び、こんな私案を加えた。
「あの企画はええなあ。しかし全国の中学校への広報活動のことなど考えると、新聞社の主催にした方が、いろいろと都合がええんと違うか・・」
この提案が実り朝日新聞が喜んで引き受け、現在の“夏の選抜高校野球大会”へと発展してきている。現在、全国の高校学徒を沸かす夏の風物詩ともなった。“夏の選抜高校野球大会”の生みの親は、じつは小林一三だったのである。
考え方の柔軟さ、発想の新鮮さ、将来への見通しの確かさ。驚くばかりである。
●知識のある馬鹿になるな
小林一三(昭和32年歿)という人は、経営戦略でもマネジメントでも前例を踏襲することは皆無に近く、みずから前例を創り出したところに、非凡な才覚を感じさせる人だったらしい。
たとえば前述のように昭和32年に亡くなる直前に、ある人が千葉県の船橋に、現在の健康ランドのような総合リクリエーション施設を計画した。A土地興行という会社だった。
この会社の経営者が、所有地に温泉が出たものだから、「よし、船橋ヘルスセンターを作ろう」と思い立ち、経営の神様・小林一三に、「ぜひ一度、現地を見ていただきたご高見を伺いたい」というお願いをした。そして小林による現地視察の日は訪れた。
ところが約束の時間になっても、小林の車は一向にやって来ない。関係者全員でヤキモキして待っていると、なんと小林はテクテク歩いてやって来るや、「もう現地は見てきた・・」といってヘルスセンター起業への賛意を表した、というのである。
なんと小林は一般の交通機関に乗り、事前に入手していた計画地まで足を運び、東京からの客のアクセス時間や経路まで調べ、いわゆる踏査までして、検討していたというのだ。
もともと小林は、事業家になる意思は毛頭なかった。希望の本命は作家だった。
だから生活のため三井銀行に入ったが、勤めの傍ら執筆に努めるが、日が暮れると夜の紳士に早変わり。酒と女でよく遊んだ。
小林の創造企画エネルギーの根源は、どうやら〈有識人間〉というより、〈遊識人間〉としての経験が、発想の土台を支えていたようだ。
有識人間は確かに知識はある。しかしこのタイプは、こんな意見にも耳を傾けて欲しい。
「いろんな本を読み、名門の学校にも通い、いろんなことをよく憶えている人がいる。しかしただそれだけで終わる人物は、知識のある馬鹿に等しい」(フリデリック・ビンリングス)
“らつ腕経営者”になる条件の一つは、どうやら“遊び”も入るようだ。問題は、どんな遊びが必要かだ。遊びとはいえ、“遊学”もある。ここが思案のしどころだ。