20年12月01日
②偉人達の365日の処世訓
●「勉強と修業」・小菅丹治(伊勢丹の創業者)
小菅丹治は神奈川県山北(足柄上)の農家の七男坊であった。耕地の少ない土地柄で長男以外は百姓にもなれない。そこで小田原の町へ奉公に出た。わずか11歳のときである。
奉公先は内野という呉服屋だった。わりと大きな店で番頭も何人もいた。そういった連中にこづかれ、からかわれ、また教えられて大きくなった。何しろ11歳から28歳までいたのだから勤めたというより育ててもらった、といったほうがいいかも知れない。
この間に小僧から中僧へ、さらに番頭にもなった。彼の生涯における全ての勉強と修業は、この17年間に積まれたといってもいい。
その後東京に出て、苦労の上にも苦労を重ねた。しかもデパート経営では40、50になっても新しく勉強と苦労をし直した。勉強と修業は、いつまでたってもこれでいいということはないということだ。
伊勢丹は、繊維(特に和装)に強いという評判が長い間あったが、こういう経緯があったのである。その伊勢丹は、1886年に中仙道沿いの「伊勢屋丹治呉服店」として、神田旅籠町に開業した。
1923年には、関東大震災が起き「神田店」を焼失。
1924年には、神田店を再建すると同時に、それまでの座売り方式から、現在の総陳列法へと改めて、現在のデパート方式に変革した。
小菅丹治は神奈川県山北(足柄上)の農家の七男坊であった。耕地の少ない土地柄で長男以外は百姓にもなれない。そこで小田原の町へ奉公に出た。わずか11歳のときである。
奉公先は内野という呉服屋だった。わりと大きな店で番頭も何人もいた。そういった連中にこづかれ、からかわれ、また教えられて大きくなった。何しろ11歳から28歳までいたのだから勤めたというより育ててもらった、といったほうがいいかも知れない。
この間に小僧から中僧へ、さらに番頭にもなった。彼の生涯における全ての勉強と修業は、この17年間に積まれたといってもいい。
その後東京に出て、苦労の上にも苦労を重ねた。しかもデパート経営では40、50になっても新しく勉強と苦労をし直した。勉強と修業は、いつまでたってもこれでいいということはないということだ。
伊勢丹は、繊維(特に和装)に強いという評判が長い間あったが、こういう経緯があったのである。その伊勢丹は、1886年に中仙道沿いの「伊勢屋丹治呉服店」として、神田旅籠町に開業した。
1923年には、関東大震災が起き「神田店」を焼失。
1924年には、神田店を再建すると同時に、それまでの座売り方式から、現在の総陳列法へと改めて、現在のデパート方式に変革した。